Public Art Research Center 12 [PARC12]・サスティナブルなオルタナティブをめぐる・2つのテキスト

① PARC12が浮かび上がらせたもの 吉崎元章(本郷新記念札幌彫刻美術館館長)
不審者としてのアーティスト、寄生者のオルタナティブ 齋藤雅之(公益財団法人 札幌市芸術文化財団)

▶︎Public Art Research Center 12 [PARC12]サスティナブルなオルタナティブについて

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PARC12が浮かび上がらせたもの

吉崎元章(本郷新記念札幌彫刻美術館館長)

 PARCではこれまで、実にさまざまな展示やトーク、ワークショップを展開してきた。それは、この街がより魅力的で活気あふれるものにしていくことと、アート活動とが、いかに関わりをもっていけるかを探る思考と実験の場であったと言えるだろう。この課題に向けては、作品を制作し発信する側からだけではなく、多くの市民がアートに関心をもち、積極的に楽しみ、日常の中に取り入れていくようになることも重要であろう。その意味からも、もともと関心がある者だけが集まる閉じた場ではなく、1日7万人が行き交う地下歩行空間で、不特定多数に公開している意義は大きい。
 12回目となる今回のテーマは 「サスティナブルなオルタナティブ」。それを最初に知ったとき、韻を踏んだ心地良い響きとともに、相反するような語の組み合わせに魅力を感じた。「オルタナティブ」という言葉の解釈は人それぞれ異なるだろう。公立美術館の学芸員というまったく逆の立場に長く居る私が抱いていたのは、自由さや柔軟さ、そして実験的な挑戦を思いっきり行っているというイメージであり、そこにある種の羨ましさも感じていた。それと同時に、継続が保証されていないなかで活動を続けていることへの敬意を払わずにはいられないものでもあった。そうしたオルタナティブな活動の「サスティナブル」(=持続可能な)がテーマだというのだから、とても興味がそそられたのだ。
 今回のPARCは、3作家による展示と2回のトークイベント(そのうちの1回に私も登壇)で構成されている。それらを実際に観たり、参加するなかで、大きく分けて二つの視点があると感じた。一つは、作家個人が制作活動を続けていくにはどうすればいいのか。もう一つは、志を同じくする者と協力して、いかにアート活動を持続していける環境を自主的に整えていくかということである。それは、この企画者を含め、多くのアーティストが直面している問題でもあろう。すぐには解決策が見つけられるものではないかもしれないが、問題意識を共有しながら、抽象論ではなく具体策を考える機会にしたいという切実な思いからだったにちがいない。
 周活/ Shukatsu、村上慧、碓井ゆいの展示はそれぞれ、資材の再活用、生活と直結したアート表現、家事の無報酬さの視覚化といったアプローチを感じさせるものであった。今回のテーマに即して考えるのであれば、作家活動を続けるうえで避けては通れない、実生活や経費との関係を問うものとも言えるだろう。
 出品作家によるトークイベント「三足の草鞋:持続的な作家活動とは?」(10月19日)では、まさにそのことに関して意見が交わされた。生活費のための仕事や、家事、育児と両立させるなかでの制作時間の確保、さらに40歳代以降に増す困難などについての生の声であった。なかでも、家庭を犠牲にしないため、スキマ時間でも取り組める制作手法への変更も厭わないという碓井の姿勢が印象的だった。
 もう一つのトークイベント「北海道・日本のもう一つの現代アートシーン」(10月23日)では、私のほか、高橋喜代史、池田佳穂、卯城竜太が、それぞれの立場から北海道と国内外におけるオルタナティブ活動の事例を報告し、その持続性について考えていった。いずれの事例も、いま自分たちがおもしろいと感じること、必要だと思うことを率先して実践していこうという情熱が根底にある。しっかりと機能させ存続させていくことも大切だが、その熱が失われたり、やり遂げたと感じたのならば、やめたり、変化させたり、さらに新しいことに移行することも厭わない“自由さ”が、オルタナティブな活動の根幹なのかもしれないと感じた。
 改めて全体を思い返してみると、一つ目のトークで高橋喜代史が語った「自分にとって、アーティストは職業ではなく、生き方だ。」という考えが、すべてに通じるものであったように思う。彼は続けて、誰にも左右されずに自分だけで始めて完結できることの“自由さ”の魅力も語った。それは、作家活動を持続していくうえで最も必要なことは、作品が売れるかどうかではなく、苦境においても諦めることなく、自らの表現をし続けていきたいという内から湧き上がる強い意志であるということに他ならない。そして、どのようなかたちでもアート表現は続けられるということなのだ。
 とはいえ、現実問題としては、アート活動以外の負担を極力減らし、生活していけるだけのものは確保しながら、自由にのびのびと制作に打ち込める環境を少しでも実現していくことが、いま求められている。近年、行政においても作家活動を支援するさまざまな取り組みが検討され、試みられるようになったことは、創作活動の独立性の問題はあるものの、喜ばしい傾向であろう。
 アートが街の活性化と深く関わっていくようになるためには、アーティストたちがこの地で活発に活動を繰り広げていくことが不可欠である。そのための公的支援のさらなる充実と、それを上手に“したたかに”活用していく術については、今後ますます問われてくるにちがいない。しかしそれらも、アーティストたちが高い意識をもって自律的に行動していくことが前提だということに変わりはないはずだ。今回のPARCでの試みは、まさにそのことに対して、アート活動を持続していくうえでの問題点を浮き彫りしながら、確認することになったと思う。
 「オルタナティブ」という言葉の対義語は、「スタンダード」や「トラディッショナル」などであろう。そう考えると、主流となっている価値観や既成の制度などに縛られずに、新しいものを果敢に生み出していこうとする実験的で創造的な行為とも捉えることができるだろう。個人であれ組織的な活動であれ、しっかりとした信念をもった熱い思いに突き動かれた、そうした行為であるならば、PARCもまた、「オルタナティブ」な活動だと言えるのかもしれない。
 PARCが、これからもパブリックとアートとの関係を深く考えながら、この街に新しい風を吹かせ、刺激を与えていくような挑戦的な企画を続けていくことに大いに期待している。

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不審者としてのアーティスト、寄生者のオルタナティブ

齋藤雅之(公益財団法人 札幌市芸術文化財団)


⚫︎「社会人」としてのアーティスト

伊澤彩織のアクションを観に来たつもりなのに、『ベイビーわるきゅーれ』には毎回きっちり泣かされてしまう。わけてもドハマりしたのはドラマ版(※1)である。「殺し屋」という荒唐無稽な設定の中でユーモアと悲哀たっぷりに描かれるのは、現代日本社会の「仕事あるある」。目的も理由も明かされずに指示だけが降ってくる業務現場。正気の沙汰とは思えない馬鹿げたパーパス。判断基準がないまま調整に奔走させられる若手マネージャー。過剰適応のためのエナジードリンクと、現実逃避のためのストロング系チューハイ。面倒事も責任も押し付けられるのはいつも、権限も裁量も持たない末端の人間だ。そして何より、「殺し」という能力=資本が徹底的にペーパーワークによってマネジメントされる、「官僚制のユートピア」のかったるさ。制度的裏付けも、経済的信頼も、倫理的指針も、すべてがことごとく崩壊した社会。そこで翻弄され疲弊していく登場人物の姿はリアルで痛々しく、心を揺さぶられる。

芸術家を取り巻く状況も全く同じではないだろうか。ジュリア・ブライアン=ウィルソンがその著書『アートワーカーズ』で描きだしたのは、1970年代のアメリカで、芸術家たちが労働者として自己を再定義しようとした動きである。しかしそれから半世紀が経った今、無効化されたのは「芸術家」ではなく「労働者」の方だった。「社会人」というのは日本特有の謎概念だとよく言われるけれども、あれは結局、階級闘争の主体たる「労働者」の政治性を封殺し、集団的対抗性を個人化=自己責任化するのに都合が良い言葉なのであって、グローバルな経済動向とよくマッチしているように思う(※2)。クリエイティブ産業においてもことは同じで、クリエイターたちは起業家精神のもとで自らの才能を切り売りしながら個人として生き延びる。アンジェラ・マクロビーがその著書『クリエイティブであれ』で描き出したのは、「創造性」という言葉によって自己実現のロマンがでっちあげられる一方、それを口実に薄給長時間労働と社会福祉の切り下げが正当化される、クリエイティブ産業の惨状である。

⚫︎「アーティスト」という自己定義
「アーティスト」でも「芸術家」でもなんでもいいのだけど、この手の属性に自己を同一化しようとする時、なぜか通過儀礼が求められる。その方法は例えば、数十万円とか数百万円とかを払って美大なり専門学校なりオルタナティブスクールなりに入ることだ。しかるべきカリキュラムを修了すれば晴れてアーティストを名乗る権利が得られるのであり、その頃には業界有力者や利害関係者との社会資本も構築されているのだから、しからば助成金を申請する名目もノウハウも、なんなら仕事のツテも獲得している。しかし「アーティスト」と名乗るからには、自分の能力の研鑽に努めるだけでは足りない。絶えず社会に対して自己定義と存在証明を怠らずにいなければならないのだ。もちろん、自分が制作活動に勤しめるのは社会の皆々様のおかげであることを、ひとときも忘れてはならない。それが社会的責任というものである。…と、そんな具合なのだ。

もちろん皮肉である。言うまでもないことだけど、何かを学ぶことも、何かを表現することも、認可制でも免許制でもない。縄張り意識は多少はシーンを活性化させるかもしれないが、利ざやは減る一方である。ならば、「アーティスト」にせよ「芸術家」にせよ、そういう自己定義は使いたければ使えばいいし、ダサいと思ったら使わなければいい。何事も要求水準だけが無意味に引き上げられているのだから、それくらいの図々しさは持ち合わせておくべきである。

⚫︎「不審者」としてのアーティスト
「サスティナブル」であれ「オルタナティブ」であれ、その手の話を考えるならば、これまで自明にされていた前提を再考することが不可欠である。チ・カ・ホで展開された、村上慧、周活/ Shukatsu、碓井ゆいの三者の展示はいずれも、「作品」や「展示」をめぐる定義や制度の境界を強く意識させるものだった。

「ポップアップストア」を銘打つ村上慧の「Hello, Goodbye Works」は、「作品」というアイデンティティを揺るがせる。既製の衣服をふたつ切り貼りして作られた商品にはロゴタグが縫い付けられ、2,000円とか3,000円といった値段で販売されている。値札に印字された商品名は、「作品 No.3 半ズボンだった長ズボン」、「作品 No.6 ポロシャツだったタンクトップ」といった具合に「作品」として自己を定義する。しかし多くの人は、タグのつけられたその布を「衣服」として購入するだろう。いや、それは事実として「衣服」である。「作品」であることと「衣服」であることは何の矛盾もしない。

ニヤリとほくそ笑んでしまうのは、ポップアップストアの「それっぽさ」が的確かつ具体的に再現されていたことだ。ハンガーがかけられる竹竿は、天井から下がる麻紐で吊るされているのだけど、その高さは絶妙に通行人の目線に合わせられていて、この手の公共空間で見かける出店のスタイルをよく捉えている。値札やロゴタグのデザイン、STORESのwebショップに掲載されている商品写真、全てが「本物よりも本物っぽい」のに、これみよがしにデフォルメされているわけではない。…失礼、「それっぽさ」ではなかった。これはポップアップストアを擬態しているのではなく、正真正銘のポップアップストアなのだ。

あるいは、周活/ Shukatsuは、場面に合わせて柔軟に自らの形態をアレンジする。今回展開された「シュウカツ倉庫(チ・カ・ホ ver.)」では、「展示」というフォーマットを上手くハッキングしていた。周活/ Shukatsuは、芸術制作現場で不要になった資材をストックし、他の人が再利用するための循環システム。その拠点には自分も何度か遊びに行ったことがあるけれども、飾り気のない倉庫のような佇まいで、人にみせることはあまり意識していないように見える。

しかし今回はわざわざ什器を(もちろん再利用資材を使って)作り上げ、強めの照明を当てて「展示」に仕立て上げている。来場者は好きな資材を持ち帰ったり置いていったりできるのだけど、すべてが「重さ」で管理されるのが面白い。そこにどんな行為の痕跡があろうとも、すべて平等に、統一の基準で計量されるのだ。「展示」と聞けばすわ権力性が云々としがちな芸術論を軽やかに飛び越えるようで気持ちが良い。「資源循環」と何やら意義深そうなお題目が掲げられているけれども、どちらかというとそうした公共的関心をハッキングし、資金を獲得するクレバーさが感じ取れる。それは、何かにつけては定義論争ばかりが先行しがちなアート業界において、鵺のようにスマートに生き延びるしたたかさだ。そういえば、経済思想が専門の橋本努は、近藤麻理恵(こんまり)に代表されるミニマリストの流行を資本主義論の観点から論じている(※3)。曰く、ミニマリストが模索するのは「資本主義を超えるのではなく、資本主義のシステムに寄生しつつ、その論理に巻き込まれない生き方」であり(※4)、その背景にあるのは「資本主義の社会は危機を迎えているものの、代替案はない、という諦観」である(※5)。

村上の展示も周活/ Shukatsuの展示も、そこにあるものが展示物として成立しているのは一時的なことに過ぎない。展示装置を離れて誰かの手に渡り、別の用途で使われていく。何者なのか分からない、アイデンティティが揺らぎ続ける不安定な存在によって、束の間の政治性を生み出され、それが常に変容可能性に開かれ続けるのだ。それは村上や周活/ Shukatsuの存在自体にも当てはまるのであって、この人たちは一体「何屋」なのかがよく分からない。無論これは賛辞である。政治学者の山本圭がそれを「不審者のデモクラシー」と記した通り、不安定なアイデンティティを生きる者同士が集(ってしま)うことは、今日の政治の基本的な条件なのだ。

⚫︎オルタナティブの夕食を作ったのは誰か?
対照的に、碓井ゆいの《shadow work》と《shadow of a coin》というふたつの刺繍作品は、明確に展示というフォーマットの内側を意識させる。資本制の維持に不可欠であるにもかかわらず、家庭の内側に押し込められてきた無償の家事労働を示す「シャドウ・ワーク」。イヴァン・イリイチが概念化したこの言葉は、同時に、刺繍の技法の名称でもある。透ける布地の裏から刺繍を施し、影を浮かび上がらせる手法を指し示すのだという。

「シャドウ・ワーク」の多義性を展示制度にも敷衍するように、碓井は作品の「裏側」に目を向けさせる。硬貨を大きくかたどった《shadow of a coin》は、黒の布地で覆われている。だから照明が当てられる表面からは、裏地の色彩はわずかに覗くだけである。しかし作品の裏手に回ると、そこになんともカラフルな人物シルエットが現れる。それは、貨幣=経済の裏側で家事労働に勤しむ主婦たちの姿なのだが、悲壮な印象はなく、どこか楽しげですらある。

「作品の裏に回る」という行為は、規範化された鑑賞作法を相対化しながらも、同時に、展示という制度を支える裏方の労働へと意識を向けさせる。碓井が「刺繍」という技法を採用するのは、それが長らく家政の領域に押し込められ、美術の領域で扱われてこなかったからだという(※6)。セクシズムに規定された美術制度に憤りを表明しつつも、それを維持管理してきた人々への敬意を示し、自分たちの領域として取り戻すこと。碓井はいたずらに制度を攪乱するのではなく、「展示」や「作品」にとどまりながら、それをサスティナブルに更新しようとするのだ。

「家という場所に当たり前のように配置されているものも、誰かの ──その多くが主婦による、労働の痕跡です」と、碓井はステートメントに書く。制度やアイデンティティが流動化する中で、個別具体的な行為の痕跡に目を向けること。それは、仮固定に過ぎない定義とステレオタイプだけを根拠にして物事が論じられ、なし崩し的に制度が弄ばれることへの抵抗である。

オルタナティブと称してあれこれやんちゃをしてきた人間たちの裏側にも、それを支えてきた人たちが、 ──おそらく、「美術制度」の中にも── 存在したはずだ。彼女たち/彼らのことを等閑視したまま「オルタナティブ」を考えることは不可能である。

⚫︎寄生者のオルタナティブ
さて、『ベイビーわるきゅーれ』と並ぶお仕事系殺し屋映画の傑作に、田中征爾監督の『メランコリック』(2019)がある。同じく現代日本を舞台にする同作が描くのはおそらく、業務アウトソーシングの悲喜劇である。劇中、殺し屋関連業務に就く主人公の2人組、鍋岡と松本が死体処理作業をする場面。そこで、業務受注の流儀がこう語られる。

鍋岡:(…)なんでこの人は殺されなきゃいけなかったんだろうかな、と思って。
松本:そんなこと考えてんすか?
鍋岡:そりゃ考えるだろ普通。
松本:いや。それはやめた方がいいですよ。そんなんじゃ身が保たないです。ただ何も考えずに、コツコツと処理しないと。こういうのは。

一方、『ベイビーわるきゅーれ エブリデイ!』が示す結論は対照的だ。最終話、殺し屋コンビのまひろとちさとが、職場のマネージャーと面談する場面。ジョブ・ローテーションで配属させられていた別部署から現場業務に復帰する際、ふたりは所属組織に対し、要は「仕事を選ばせろ」と要求する。

ちさと:ぶっ殺すべき相手なのかどうかが大事なんですよ。
須佐野(マネージャー):でも、殺すべき相手かどうかなんて、自分たちだけで判断できますか?善と悪なんて簡単にひっくり返る世の中ですよ?
まひろ:だからこそ、人の判断じゃなくて、自分たちの目で判断して、自分の気持ちで働きたいんですよ。

強く断言しておくが、これは真っ当な要求である。仮に社会人としての作法を逸脱しているように思えるとしたら、その理由は若者が未熟だからではない。「社会人」という労働規範の内実がそもそも空白だからである。労働であれ、あるいは制作活動であれ、心身を疲弊させてまで付き合わなければならないほどの社会的な基盤も信頼も、最早とうに失われている。

シネフィルの向きには怒られそうだけれど、『メランコリック』が最終的に描くのは(おそらくはひとときの)クーデターの成就である。『ベイビーわるきゅーれ エブリデイ!』も同じ結末に至るのかと思いきや、まひろとちさとはすったもんだの末に、最終的には組織内の調整と交渉を通じて自分たちの状況を改善させ、要望を実現していく。構造を変革するのではなく、制度の中で環境を整えていくというやり方は、馬鹿馬鹿しいのに逃げ場の無い「資本主義リアリズム」をやり過ごす方法として賢明である。

とはいえそれは、まひろとちさとが組織的なバックアップを確保できており(※7)、卓越した能力=資本の持ち主であり、そして何よりも最愛のパートナーにめぐり会えたが故の特権である。ならば、そうでない者はどうするか。変幻自在に態度を変え、制度の裏をかき、その隙間を見つけてはサボり、その場所を自分勝手にアレンジし、取れるところから金を取れば良いだけだ。そんな寄生=パラサイトの術がいつか、不意にオルタナティブを生み出すかもしれない。しかしそれは、当人たちには預かり知らぬことである。

「パラサイトとは、慣習的な法によって共有された規範を攪乱し、そこに決定的な変容をもたらす、そのような潜勢力をもったあらゆる存在者の名称である。」(星野太『食客論』講談社、2023年、p.230)


※1:『ベイビーわるきゅーれ エブリデイ!』(2024年、テレビ東京系列)
※2:1970年代から20世紀末にかけ、いかに狡猾に労働者が無力化されてきたのかについては、グレゴワール・シャマユー『統治不能社会』や、マイケル・リンド『新しい階級闘争』が参考になる。
※3:『消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神』(橋本努著、筑摩書房、2021年)
※4:上掲書、p.103
※5:同上、p.291
※6:本展の関連トークイベントでの碓井の発言より。(「三足の草鞋:持続的な作家活動とは?」2025年10月19日(日)14:00〜16:00)
※7:現代日本社会における雇用形態の差異と労働者の実存の問題については、劇場版2作目の『ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー』(2023年)が極めて的確に描き出している。

〈参考文献〉
・『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? これからの経済と女性の話』(カトリーン・キラス=マルサル著、高橋璃子訳、河出書房新社、2021年)
・『新しい階級闘争 大都市エリートから民主主義を守る』(マイケル・リンド著、寺下滝郎訳、東洋経済新報社、2022年)
・『アートワーカーズ 制作と労働をめぐる芸術家たちの社会実践』(ジュリア・ブライアン=ウィルソン著、高橋沙也葉ほか訳、フィルムアート社、2024年)
・『官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』(デヴィッド・グレーバー著、酒井隆史訳、以文社、2017年)
・『クリエイティブであれ 新しい文化産業とジェンダー』(アンジェラ・マクロビー著、田中東子ほか訳、花伝社、2023年)
・『資本主義リアリズム』(マーク・フィッシャー著、阿南瑠莉ほか訳、堀之内出版、2018年)
・『シャドウ・ワーク 生活のあり方を問う』(イヴァン・イリイチ著、玉野井芳郎ほか訳、岩波書店、2006年)
・『消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神』(橋本努著、筑摩書房、2021年)
・『食客論』(星野太著、講談社、2023年)
・『統治不能社会 権威主義的ネオリベラル主義の系譜学』(グレゴワール・シャマユー著、信友建志訳、明石書店、2022年)
・『斜め論』(松本卓也著、筑摩書房、2025年)
・『不審者のデモクラシー ラクラウの政治思想』(山本圭著、岩波書店、2016年)